雷電のチチ日記

二千円札を最後に見かけたのはいつだったろう./最近はTwitterでつぶやいてることが多いかも/はてなダイアリーから移ってきました since 2005

24時間マラソンのプロデューサー

1992年のプロデューサがどこまでこうしたことを事前に見通していたのかはわかりません。でも、以上のように(「24時間テレビ」であることを前提にすれば)数字を稼いだということも自然に思えますし、以後継続しているのも当たり前ということになるのではないでしょうか。

1992年の総合演出はあの五味一男氏。彼が8月19日の朝日新聞テレビ欄コラムでちょうどこの年のことを書いているので、以下ご参考までに。マラソンの効果については企画した当人も想定外だった模様です(このコラムの内容自体に本人の「演出」がいくらか入っている可能性はあるが)。

しかし実はこのマラソン、企画の段階では短いコーナーでしかなかった。92年、僕が24時間テレビの総合演出を初めて担当した年のことである。1回目のランナーは間寛平さん。
ほかにも様々な企画を準備し、分単位の構成台本も作って本番を迎えた。マラソンは「中継2分で10回程度ならもつだろう」。正直そんな感じでいた(寛平さん、ごめんなさい)。
だが、生放送がスタートすると、僕の予想を超え寛平さんがひたむきに走る姿がすさまじいパワーを発揮しはじめたのだ。この姿をお茶の間に届けなければ――。僕は他のコーナーを極端に縮め、マラソン中継を拡大していった。当然、他のコーナーのスタッフからはクレームが。それでもテレビ屋としての野性を抑えることはできなかった。
結局、マラソンは予定の10倍近い時間を割いて放送。番組が終了した頃にはいつしか周りの空気も変わり、スタッフ全員が拍手を送っていた。現実は時として計算されたドラマを凌ぐことがある。

(今年の放送は上の部分以外は見ていない)