雷電のチチ日記

二千円札を最後に見かけたのはいつだったろう./最近はTwitterでつぶやいてることが多いかも/はてなダイアリーから移ってきました since 2005

筑紫哲也死去の(ブログ以外より)

筑紫哲也の死去に関する文章、ブクマしたくてもブログ形式でない等の理由でパーマリンクがないものがあり、ここに貼り付けておきます。

11月7日(金)
昨日『週刊金曜日』の編集部員に筑紫哲也さんの病状を尋ねて近々の講演会に来てもらえるかどうか…と聞いたばかりなのに衝撃の訃報が入る。筑紫さんとは『ニュース23』に出演したとき「プロ野球の乱闘」がテーマだったにもかかわらずコーナー開始直前にディレクターと思しき人物から「日本シリーズ中継権の問題があるので清原のバット投げ事件は喋らないでください」と囁かれた小生が激怒。さらに筑紫氏が西武の森監督(当時)を番組で紹介するときに「野球の監督というよりも大会社の社長も出来るほどの人物」と表現してさらに激怒。野球ひとつマトモに語れずに何がジャーナリズムか!野球(スポーツ)を馬鹿にするな!という文章を書きまくり筑紫さんと大喧嘩。『話の特集』誌で約1年にわたって罵倒し合った仲。その喧嘩は矢崎泰久編集長が間に立って対談し和解したがその後は『ニュース23』に一度も呼ばれなかった(笑)。その後前田日明のプロレス会場で出逢ったりソノ時『鮨処もり山』の大将を紹介して大船まで食べに来られたとき偶然小生も店にいて歓談したり『エンジン01』で乙武君と一緒に歓談したりとお付き合いさせていただいたがお会いするたびに『ニュース23』のスポーツ報道は甘いと言い続けたので結構嫌がられたなぁ。でも(きっと)生意気なヤツと(心の底で)思いながらも俺の喋ることは黙って聞いくださったなぁ。合掌。昨日から書き続けたちょいと長い原稿を仕上げたあと夜から名古屋へ。

タマキのナンヤラカンヤラ 玉木正之公式WEBサイト『カメラータ・ディ・タマキ』

もひとつ

【11月8日】 「栄光なき天才たち」では確か単行本の第6巻に掲載されているエピソード。読売新聞社会部の立松和博記者がスクープ記事を書いたもののそれが検察の情報漏洩を見つけだす策略に載ったガセネタで、立松記者は名誉毀損なんていう容疑で逮捕されて拘留されて、けれども倫理にのっとりネタ元を口にしなかったことで記者の鏡と讃えられつつ、どうにか釈放されたものの程なくガセネタだったことが分かって読売新聞はデカデカと記事取り消しを宣言し、立松記者記者は失意のうちに世を去った。

 このエピソードの原型はたぶん立松記者と同じ読売社会部で仕事をしていた本田靖春さんの「不当逮捕」という本で、今はそれは旬報社というところから出た「本田靖春集」で、他の吉展ちゃん誘拐事件を取り上げた「誘拐」や、金嬉老事件を扱った「私戦」といった戦後を代表するノンフィクションなんかと合わせて読むことが出来る。

 そんな本田さんが糖尿病の症状が重くなって両足を切断し、さらにガンで闘病を経て2004年に亡くなった時にいったいどれだけのメディアがその訃報を取り上げたんだろうかを今から調べるのってちょっと面倒だけれど、少なくともテレビメディアが即日にその偉績を並べて訃報を流して死を悼んだって記憶はないし、翌日のスポーツ新聞が1面にデカデカと訃報記事を掲載し芸能面社会面なんかにも関連記事を入れて痛んだって記憶はない。あるはずもない。

 読売時代から売血の拙さを訴え「黄色い血」キャンペーンを展開して今の献血の仕組みが出来上がるのに貢献した人でもあるんだけれど、それだけのジャーナリストの死をそれだけの業績に則して伝えたかってなるとなかなかなに疑問も残る。大阪で大活躍した黒田清さんもそういえば2000年に亡くなったけれど、スポーツ紙が1面で報じたなんて話はなかったよなあ。

 だからいったいどういう訳で1面なんだってあたりを筑紫哲也さんの訃報をデカデカと掲載した今朝のスポーツ新聞なんかを見るにつけ、ジャーナリストとしての価値って奴とテレビメディアにおける知名度って奴は必ずしも一致はしないんだってことを改めて思い知らされる。もちろん筑紫さんが朝日新聞の記者時代にニクソン大統領のウォーターゲート事件なんかに触れたり、その後の大統領選なんかををおいかけた報道は面白かったし、「朝日ジャーナル」の編集長として才能のある若い世代を積極的に取り上げて権威をひっくり返してみせた活動もとっても大好きだった。

 昨今のメディアが前にも増して権威にはしりそれなりに知られた人しか紹介せず、その権威に頼りすがって延命を図ろうとしている状況を見るにつけ、今こそふたたび「若者たちの神々」的な企画をどんどんとぶち上げて行きたいもんだと願い動いては、周囲の白い目を浴びていたりするんだけれどそれはさておき筑紫さん。「朝日ジャーナル」編集長を降りてテレビに転じて20余年の期間にいったい前を超える実績を残したのか? って辺りにちょっぴり懐疑が浮かぶ。

 たぶんいろいろやったんだろう。反戦にしても沖縄の浮揚にしてもやったんだろうけどあの一言、オウム事件に絡んで坂本弁護士にビデオを見せていた局の態度を批判して「TBSは死んだ」と言って喝采を浴びながらもその死んだTBSに出続け、ならば死んだところから生き返らせるだけの力を見せたかというと未だに死に体を維持しながらも続いていたりする状況を、どうにもできなかったことをもってどちらかといえば後ろ向きに評価すべき人なんじゃなかったかって、そんな気分もわき上がる。

 けれどもスポーツ紙は1面で新聞なんかも1面でテレビではワイドショーが取り上げ芸能人も多くかけつけたって報道される。もはや芸能人と代わらないこの扱いはつまり芸能な人としてはそれなりなバリューを得た人だって意味なんだろうけどだからといってそれをジャーナリストとしての価値も示しているんだと感じ取るとどこかにすれ違いを起こしそうなんで、ここは今いちど立ち止まってその活動や言説を、振り返りつつジャーナリストの本分について考えてみよう。ともあれ合掌。

日刊リウイチ

愛ある文章だと思う。合掌。